体内ランデヴー

 心の不調は昔から腹痛として現れていたのですけれど、今日は久々にお腹がとっても痛くって、せめてバイト前じゃなくて善かったと思いながら悶えてます。私たちの自由はあまり時代とは関係のないものなので、正しい生き方をする上で時代背景とかまったく考慮する必要はない。
 マスコミは好きなひとは好きだし嫌いなひとは嫌いだし、憧れるひとは憧れるし関わりたくもない人間は一線を引く、突き詰めれば普通の職業でございます。貫いた偏見がマスコミのひとたちは何かの事件や世間の関心事になりそうな出来事が起こると関係者に蛆虫みたいにまとわりついて報道の自由を盾に私生活を妨害する、って印象を与えるのですけれど、純粋にお利口に平凡に生きてきて十六年間、関わったことなどありませんから判りませんね。でもよく聞く報道の自由って言葉はプライバシーの権利を妨げるというもので、報道の自由とか知る権利とか、そういうものを行使する人間を見ると、ええマスコミは関係なく、私は伊藤計劃の、うろ覚えですけど、完全に制限のない自由など存在しない、みたいな言葉を思い出すのです。伊藤さんは他のところで自由とは選択する権利だとも言ってますね。私はそれを知ってからあ、あ、あ、と私の彗星が心臓に恋してしまったみたいな興奮がほとばしったのです。 報道の自由には勿論責任が存在する。報道の自由を行使したいなら喪われたプライバシーを補わないといけない。それが出来ないならそれは報道の自由ではなく自分勝手に生きて法律で裁かれるまで好き勝手やる自由だわ。私相変わらず法律が守るもの、という頭になれないのですけれど、それは善いとして。
 腹痛の原因とされる心の不調は何の事なのか判らずじまいです。人間生活疲れちゃったかなあ。

勘違いも甚だしい

 倫理の授業で勉強したソクラテスを思い出していたのですけれど、いい加減ソクラテスの弁明とかプラトンの作品読みたいなーとか思いながら読み溜めている本は多いし金はないしそんなこともうしばらく出来るわけもないのですが、ソクラテスのいう善く生きる、というものでしたっけ、彼の言葉が喉の小魚の骨みたいに引っかかってはるのです。善く生きるってどういう生き方なのでしょうねえ。そんなものが決まっておりましたら、マニュアル通り皆善く生きようと必死こきますけど、それが判らんから自分の本能に従ったりとりあえずがむしゃらしてみたりして人間の個性と呼ばれるもの、私たちが生きるために大事とするものの活用性を見れるというわけであると思うのですけれど、彼ついで福徳合一とも言ってて、つまり徳の在る生活こそが幸福、彼の言う徳、アレテーってのは知である、つまり知識を持ってることが幸せなこととか言うておりますけど、私それでびっくりしちゃって、笑ってしまったの、それを思い出していたのです。  知識がないと幸せになれないだなんて、なんて高尚な。そして高潔な。それでいてなんて俗物なのでしょう。  彼の言う幸福とはつまり善く生きる、というもので、その彼の言う善く生きる、というのは突き詰めれば道徳的に認められる素敵な人生、ということなのでしょうかね。個人の話ではなく全体のはなし。なるほど彼の選ばれた死刑、それもしゃあないのかもしれません。あのひとが求めたのは道徳的幸福、道徳的人生、道徳的生存。その道徳が時代によって移ろうのだとすれば、それはその時代を生きるひとの所為。彼が民衆裁判で死刑にされてしまったのも、また、彼の願った道徳の枝別れなのでしょうとか、そんなことをリフレクションシートに書くことにしまして、まあどうせ意味が判らないとか書かれて終わりなのです。あの先生はそういう先生なのです。いえまあ、理解してくれないならそれでよろしおす。貴方の頭のシャンプーの節約に協力したいわけでもありません。

改行するたびのpは善くない

お題「手帳」

 こういうのやってみたかったのですよね、女子高生の間でブログが流行ったのはいつでしたっけ。アメーバあたりでで毎日お題みたいなものがあって、それで記事を書くと後日評価されてウェブ内のマイルームを飾りつけることができますよ、みたいなシステムで女の子たちがこぞって私の一生の一部というものを公開していた。それは決して日常ではなく、あくまで人生の一部。何が違うのかを考えてみればまあ言葉が違うにすぎないのだけれど、言葉が違うなら意味もその分違うと考えて、思いつかないけれどそういうことにしておく。
 最近の子って手帳使うのかな。端末でスケジュールは管理出来てしまうものね。私は手帳を開くとバイトとみたい映画の公開日と、映画好きなのですよ、追憶と美女と野獣とコナンですね、最近見たのは、あと三度目の殺人と22年目の告白は始まったら見に行くし、BLAME!は見そびれました、二週間限定はなかなか苦しい、で、少ない知り合いとのお出かけの予定くらいですね。とってもかわいそう。
 外に出かけるのは嫌いでも好きでもないのですけれど、わざわざ誰かとどこかへ行こうかと約束するようなきっかけとか理由が見つからないのですね。それでも一応手帳には真白じゃない程度に予定は詰まってるし、皆に逢いたくて時間が足らないよぅというわけでもないから、気楽と云えばそうかもしれない。
 現代のひとは時間に追われていると現代文の問題集の評論で読んだけれどほんとうにそうなのかな。確かに今は時計を持っていなければ非常識な感じではありますけれど、でももう人間の時間を時計で測ることは出来なくなっている気がする。何の根拠もないけれどそう思う。
 手帳とか文房具とか、まあなんでもそうなんだけどこだわるひとは凄くこだわるしこだわらないひとは全然こだわらないものなので、私はどちらかと云えばこだわる方なんだけど、後ろに沢山余計な罫線があるソフトカバーが善いんだよ。いろいろ書けるし、柔らかくて失礼な話折り曲げて突っ込んでいけるし。

 手帳の唯一の問題点は1の次に2が来て、2の次に3が来てしまうことだけ。困ったね。
予定と手帳がイコールにならなくなってきた世の中なので、もう約束を忘れてて遅れた時の言い訳にごめーん、手帳に書き忘れてたなんて言えないんだよなあ。くるしい。
今日はゲームの運がとてもよかったのでちょっとだけ気分は善いけど、やっぱり何も成し遂げてはいないのです。
これNsimSunに替えたらだめかな。MS明朝か何か知らないけど可愛くないなあ。
そうです、悪口とは善いものですねとだけ、書きたかったのに。

愛とか恋とかしゃらくせえや

 今日はだらだらと一日を過ごしてこう、生産的なことは一切してないのですね。課題をやって、ちょっとだけ原稿を書いてたんだけどそれもうまくまとまらず破棄すると思うのと、いつもよりもお湯を沢山沸かして沢山コーヒーを飲んで、しいたけ茶も飲んだ。それだけ。原稿というとちょっと小説家みたいだけど同人アンソロに寄稿する程度のものだね。うまく書けないね。何が言いたいか判んないんだよ。それで今日はこれといって何もないまま終わってしまった。何かを成し遂げたいとは思ったんだけど、結局何も出来ませんで。
 愛してると好きの違いを考えるのです。愛してるは愛情からなるもので、好きは恋情からなるもの、ってところまでは辿り着いたけれど、では愛情と恋情の違いとは? 恋人たちを繋げるのはどっち? 夫婦は? 片想いは? そういう感じですね。初な女の子なので愛とか恋とかしゃらくせえや、したり顔で語ってんじゃねえと恋愛相談などを見てると嫉妬するのですけれど、やっぱりそれは人間としてなのか、女の子としてなのか、愛というのは実に魅力的ですね。愛と恋を比べますと、何故か愛の方が深い気がしますね。そんな事を言うと今日好きだよと告白した男の子に昭和くせえんだよと言われそうではあります。愛とは重いのです。
 愛はひとつになるのです。恋はくっつき合うのです。たぶんそういう違い。ひとつになることを最終目的として頑張るのです。だから愛情と恋情では、貴方と私、判りあえないことがあるのでしょう。ひとつになるって決してセックスをするとか、って意味ではないのですけど、ひとつになるっていったいどういう状態なのでしょうね、具体的に。とりあえずひとつになるのですね。愛と愛が重なりあって、一つになって、私と貴方はおんなじ。貴方を愛すことは転じて私を愛すことにもなる。恋は寄り添う感じ。だから好き同士は時に直ぐに別れてしまうのですね。 うーむ。私も大概、しゃらくせえですね。

私の為というなら代わりに不幸になって欲しい

 もう直ぐバイトの時間だなあって心臓がどぎまぎしてる。忙しかったら身体が悲鳴をあげてしまうし暇だったら退屈で私はここでだらだらと歩いて時間を潰すだけのためにバイトをしているのかと泣きたくなってしまうし、どちらにしてもバイトは辛いのだ。そもそも辛いことをするからお金をもらえるわけで、好きなことをほんとうにちゃんとした意味で仕事に出来ているひとを私は知らない。母は自営業だから好きを仕事にしてる、って言えるんだけど収入は安定しないし、現に家を担保にしてお金を借りなきゃいけないかなあなんて話さえしてるくらいにはたいへん。それは仕事としてちょっと成立してないんじゃないかな。うちの母親は人間なんです。
 好きを仕事に出来たら幸せだろうなあ。楽しいかどうかは知らないけれど。でも私自分が何を好きかよく判らないから、少なくとも職業として存在しているものを好きってわけじゃあないんだよねぇ。こうして何かを書くのは好きだけど小説家になりたいわけじゃないし、なれるとも思えないし、そして私好きなことが思いつけないんだよねえ。やってみたら意外と楽しかった、はあるかもしれないけどやってみたらこれが好きなことに気づいたなんてことはそうないような気がして、うーん。
 好きなこと。美味しいものを食べること。本を買うこと。それで読むこと。可愛いものを買うこと。ゲームをすること。寝ること。色々書くこと。写真を撮ること、ただしひとはいや。
 嫌いなこと。虫が近づいてくること。生ぬるい風。詰まらない授業。バイト。私のためって言葉。自転車に乗ってるときの強風。スクロールに対応してくる広告。
 幸せの絶対量が決まっているなら私喜んで幸せをつかみ取るために努力と名のつく悪行をする。きっとみんなそう。絶対的な上限があるなら誰よりもそれを手に入れようと頑張ろうとする。誰が皆の幸せの為に私は遠慮しますよなんて言うものですか。そういうひとの本音など誰よりもどす黒くて見返りを期待しているのですよ。見返りも期待しない何も要らない貴方の幸せの為に私は遠慮しますがほんとうのほんとうのひとなら、それはとてつもなく気持ち悪いカンパネルラへの恋慕。
 うーん。悪口を言ったらバイト前三十分前になってしまった。
 愛は凡てを赦してくれるのだろうか。凡てのリセットボタンなのかな。

社会のことを知ろうね

バイトが終わって一息吐くと直ぐに0時なんて回ってしまって、だらだらとお風呂に入って書きものをして深夜3時とか4時に明日の予定に追われながらベッドに入る。そういう生活に身体は慣れてしまっているなんていったら苦労人みたいでちょっとだけ格好善くて自分のこと管理しきれてなくてダサいけど、取り敢えず身体は慣れてはくれないのです。どれだけ過ごしたら五時間の睡眠に身体は慣れて正常に動作してくれるのかな。足はくたくたで生きてないし、凄く辛いんだけど私の辛いは結局辛いで表しきれる辛いだから、たぶんそんなに辛くはないんだと思う。うちは母子家庭で母親が自営業なので収入は一向に安定しないし、いつでも自転車操業らしいのですけれど、俗にいう貧乏ですね。でも私小学校も中学校も高校も、こう、貧乏だから皆みたいに綺麗な習字道具がないよ、みたいなことはなかったのです。それはええ、母が頑張ってくれているからだと思っていたし、今でも六割くらい思ってはいるのですけれども、でもあのひとは母親としてとてつもなくお若いのですよね。いえ、年齢でなく。ですから女としてではなく母親としての家族の幸の為に動かされている母親を私ずっと可哀想だなんて偉そうに思っていたのですけれど、実は自業自得なのかもしれません。
 こういうと第三者から親不孝者だと罵られそうですね。困ったものです。日本人はきっとメディア精神を持っているのでしょと、最近はよく思います。
 何でもかんでも他人のことに首を突っ込んで、何でもかんでも知ろうとして、そのために知る権利とか行使して、マスメディアも調子に乗ってプライバシーの権利と報道の自由を対立させて遊んでいます。こんなこと言うとマスメディアにも罵られそうですね。我々は高潔な理念のもと、云々。それに教師の皆さんはよく新聞を読みましょうと言ってくるのです。私、あれも怖いなあと思いながら聴いているのです。
 新聞を読みましょう。世界で起きていることを知りましょう。自分が住んでいる日本の歴史くらい知らなきゃ恥ずかしいぞ。一般知識だぞ。
女なので女性の性被害の話は聞きたくないです。そう言えば皆まあそうだよねと言ってくださります。でも具体的な例は無視して、社会のことを知ろうね、今起きていることを知ろうねと、言ってくるのです。
 どうして知らなくてはいけないのかな。私が知りたくないことまで。日常に怯えたくなりながら。私は知りたいひとだけが知るような感じで全然善いと思うのですけれど、愛しの先生方はそうはいかなくて、私のどこに知る義務があるのだろうと考えてしまいます。ほんとうは知りたくないけれど知らなきゃ恥ずかしいから頑張って知識として頭に詰め込むひとたちの脳みその、なんとどす黒いことでしょう。あなたの道徳的恥辱など私は知らない。知りたくもない。そうは思うのですけれど。うーん。通常火力は出ないなあ。ゲームのはなし。絆レベルあがった。
 こう、生産的なことを書きたいですね。見返した時に私の過去が価値のあるものと思えるように。価値のないものならとっととゴミ箱に放って、脳にもきっと容量がある。

私もおんなじ

 週4で一日二時間だけのバイトを苦しいと感じて行きたくないと思ってどうしようもなく休みたいんだけどやっぱりバイト先のひとに嫌な顔されるのもこれから気まずいし穏やかに私を尊重するよと笑っている上司にやめたいなんて言いだしづらくて、そこは何らブラックなわけでもなし、ただ私の心の問題なのでしょう、やめることも休むことも出来ずに、行きたくないけど休む理由も思いつかずに、朝起きてぼんやりとだるくてそれでも親に急かされて時間に焦って苛々しながらドアを蹴飛ばしていく学生時代と何も変わってない。
 変わっていないのは善いことなのか悪いことなのか、たぶんどっちでもないし、変わりたい人間からしたら善いことで変わりたくない人間からしたら悪いこと、ううん、嫌なこと。
 バイト。大きな坂を越えて行くのはつらいけどそうしなきゃ生活出来ないし明日の食い扶持も確保できない身なので休むのも出来ない。時々生きてくためなら何でもやるって言葉を聞く。それはテレビのなか、画面のなか、SNSの仮面の裏、そうして私の耳たぶに出来た腫れものから。
 私は確かに生きていく為にたった一日二時間バイトをしなくてはならないのだけれど、如何して生きていこうと思うのかな。決して何故私が存在しているのか、という高校の倫理を受け直したいわけではないんだけれど、皆とりあえず生きていこうとするのだ。
 生きるために身体を売って、生きるために地べたに這いつくばって。どうしてそこまでして生きようと思うのかな。永遠に生きていたいと思う人間の七割は、わたし、ただ死ぬのが怖いだけなんじゃないかって思うんだ。ただその恐怖を先延ばし、永遠に程近いところまでぶん投げることで安心したいのではないか、私そう思うのです。
 たぶん何故生きているのかと聞かれたらなんとなくとしか答えようがないし、眼前に刃物を持った男が現れたら当然逃げると思う。死にたくないしね。でも死にたくない理由はやっぱり、何となくなんだ。漠然とした生への執着が私に生存本能があるように思わせるけど、生存は本能じゃなく願望なんだ。知ってるよ。習ったよ。
 明日はバイトがあるのだけれど、やっぱり行きたくないなあと思うし、きっと温かくなってきたから忙しい。私は下っ端なので言われたことをやるだけなんだけど格納する荷物は多いやら、足は痛いやら、けれど仕事がなくなったらそれはそれで暇でたまらないけれど何すれば善いですかなんて聞けない弱さ脆さ、それでいて優しさ。
 バイトの何がいやかと言われたら別に嫌じゃないんだけど、学校もおんなじでなんとなく嫌で、行きたくなくて、言ったら行ったでそれなりにおしゃべりして授業を受けて寝て部活動をして帰ってきたらああ疲れたと制服を脱ぐんだけど、何が嫌なんだろうなあ。曖昧な不安が一番危険なんだよね。知ってる。これも習った。でも教えた先生の名前は知らない。

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