私が死んだら迎えに来てね。

 ミニョンは可愛い。姉が友人とUSJに行ってお土産に買ってきたチョコレートの缶をもらった。二のSTUARTの意味は判らないけれど取り合えず目玉がひとつのミニョンは可愛い。好き。
 24hTVを妹が見てたので原稿と夏課題の合間にBGMがてら耳に入ってくるのを、それでも見ているというのでしょう。音を見るという感覚で、けれど聞いた音が映像として浮かぶことが簡単なわけだから、やはり聞いているだけでも見ているといって善い気がする。私は24hTVを見てたでしょう。郷ひろみを見れたのでもう満足です。それ以外はなにも求めてないから失望も感動もないけれどあからさまな愁嘆場とか感動シーンを見せつけられてほらほら哀しいでしょ感動するでしょ、素敵な番組でしょってされると苛々する。でもそれ以上に病気や障害を持っているからTVに出てきた子とかに対して、私は病気だけど云々かんぬんとかいってる人間を見るとプラスマイナスゼロになる。笑えるから。
 そういう人間は大抵そういう場面をきっかけとして私はこんなに苦しんでるのよって知ってもらいたいだけだし、羨ましいって感情をずるいだとか、あたかもネガティヴなものに置き換えている。承認欲求は誰にでもあるものだけど、そんなかたちでしか行使できないのを見るとわあかわいそう、ってなる。でもそういうひとたちは周りにちゃんとわあかわいそうなんだね、悲劇のヒロインなんだねって言ってもらえてるからちゃんと承認されているし、まあ良いのではないかしら、どこかで自分の可哀想な過去を話しているときにもっと可哀想な過去の子がいることを知るとキレるひとと逢ったことがあるんだけどどこだったかな、自分の過去をキャラにして売っているのね、今はキャラとして承認されることでしか人間は成り立たないと、本で読んだ。
 つい最近鷲田さんの死なないでいる理由を読んで、冒頭で僅かに承認の話が出てきて、そのあとで承認をめぐる病、書いたのは誰だったっけ、斉藤環さんだか、そんな感じの覚えがするけど私の記憶力は悪いのであてにならない。偶然ではあるもののそういうめぐり合わせを感じたので最近は承認欲求云々をいろんなところに取り入れていたんだけど、私たちってほんとうに承認されたがってるのかな。
 そもそも承認ってなに? 私は紙の国語辞典は三つしか持ってなくてうち二つは重たいから封印してるから一番軽い小型版の三省堂国語辞典第六版を参考にする。ただしそういう理由で一番使ってるからいちばんぼろぼろ。持ち歩くから雨にも濡れる。そろそろ雨にいつ降られても善いようにビニール袋を一枚持っていくべきね。私は濡れるの好きだけど本は嫌いだもの。やっぱり辞書は紙が善いね。めくってる最中にたまたま目に入った言葉が楽しい。

<center>しょうにん[承認](名・他サ)
①ことがらの正当なところを みとめること。[役員会で――済(ズ)み] ②聞き入れて みとめること。[――を得る]</ceter>

 んむ。正当なところをみとめることと、正当でないことでも聞き入れられればみとめることと定義づけられているところには少し考えたい部分はあるけれどそれはよろしいと致しまして、今回はたぶん①が大事なのでしょう。他者から承認されること。自分の正当性をわかってもらえること。つまり貴方はそこにいてもいいんだよ、貴方は貴方だよ、その根拠として。
 思えば贅沢なはなしだ。私が私であることを認めてもらえるだなんて、そんな素敵で素晴らしくておこがましい話ってない。なんでそれを他者に認めてもらわなくてはいけないのか正直他者は鏡だからとか、他者は自分の送り先だからとかふたつの本に書いてあったけれど善く判らない。確かにそう考えると承認欲求というのは極めて高次の欲求といえる。自分が自分であることを証明してもらおうとか、理解して受け入れてもらおうとか、まあよほど高貴な御身分でないとしてもらおうとさえ思わないしね。
 けれど確かに私は私でいいじゃない、なんて割り切れるひとは少ない気がする。私は、私は私でいいじゃない、私は私だから好きなことをするわ、なんて自由に生きているひとを知らない。知っているのはそういうことで個性的で変人な自分をアピールしているひとか、私は私で貴方に指図される覚えはないと自由の行使の仕方を間違えているひとくらい。
 いつか自由なんて言葉はいかがわしいからってNGワードになってしまうかもしれないね。とある映画でプライバシーってことばがやらしーものになってしまったように。
 相変わらずまとまりがないのだけど私がブログを書く時間はコーヒー一杯分と決めているのでこのへんで諦める。ふと私はコーヒー一杯で書ける長さの原稿を仕上げることを目標にしたら締切に泣かなくても善いのはと思ったけれど今はもうコーヒーは要らないので実践できそうにないし明日には忘れてると思う。

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